算額について分かったところで、日本独自の数学、和算に挑戦してみましょう!! まずは、簡単な所から・・・。
鶴と亀が合わせて32頭います。それぞれの足の和は94になるとき、鶴と亀は何頭ずついるでしょうか?(鶴は足2本、亀は足4本です)
ヒント:全部鶴だと仮定すると足は何本になるでしょう。
解答はのちほど・・・
算額についてもう少し書きます。
学問の神様、菅原道真が祀られた猪苗代町の小平潟天満宮には、毎年受験シーズンになると多くの受験生が合格祈願に訪れます。
この小平潟天満宮には、前の記事に掲載した佐久間庸軒とその門人による算額が奉納されています。この神社にふさわしい奉納品だと思いませんか。(小平潟天満宮と算額については、以前も記載したことがあります。)
8月12日(日)晴れ。午前8時の気温は19度。日中は暑いですが、朝夕は随分過ごしやすくなりました。立秋が過ぎ、間違いなく季節は秋へと向かっているようです。
さて、今日は、算額について書きます。算額とは、神社やお寺に奉納した数学の絵馬や額のことです。数学の問題が解けたことを人々は神や仏に感謝し、この算額を奉納しました。中には難問や問題だけを絵馬に書いて答えなしで奉納する者も現われました。そして、その問題を見た人は、一生懸命に解答を考え、算額にしてまた奉納したのです。この風習は江戸時代中頃から始まり、現在全国に1,000近くの算額が残っています。この算額に書かれた数学は、和算と呼ばれる江戸時代に生まれた日本独自の数学です。
私が、この算額に興味を持つようになったのは、前任校である船引町の小学校に勤務していた時です。学校近くの神社には、算額が奉納されている神社が複数ありました。なぜかというと、隣接する三春町に佐久間庸軒(さくまようけん)という和算の学者がいたからです。佐久間庸軒、どんな人かというと・・・【江戸時代後期から明治時代にかけ活躍した学者で、幼い頃から父の影響を受け算学を勉強し、17歳で『当用算法(とうようさんぽう)』という本を書きました。江戸時代末期には、三春藩の藩校「明徳堂(めいとくどう)」で先生をしていました。明治時代に入り県の職員となり測量を行っていましたが、自分だけが国のために働(はたら)くより、算学を教えて多くの人が国のためになるよう、生まれた石森【旧船引町】にもどり、塾を開き、農民を中心に2,000人の弟子に教えました。(うつくしま電子事典より)】
この庸軒やその弟子たちが、地元をはじめ各地の神社やお寺に、算額を奉納していたのです。
8月11日(土)晴れ。午後2時の気温は26度。
今日は、「山の日」山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日として、平成28年(2016年)から実施されるようになりました。
翁島農園で獲れたトマトを子ども達に食べてもらおうと児童クラブを訪ねてみると、読書中でした。今日は、来ている子が少ないということでした。もうすぐお盆。お家の方も少しずつお休みになってきているようです。
8月10日(金)晴れ。午後1時40分の気温は28度。暑さが戻ってきました。台風13号が去って、今朝の猪苗代湖は穏やかでした。
8月9日(木)曇り。午後1時20分の気温は、23度。台風13号は、正午現在、いわき市の南東約40kmの地点にあり、北東に向かって進んでいると言うことです。
本校周辺は、空一面黒っぽい雲で覆われているものの、午前中からほとんど雨は降っておらず、風も一時期少し強いかなと感じる時がありましたが、現在はほとんど風のない状態です。このまま、何事もなく台風が遠ざかってくれることを祈るのみです。
今日8月9日、長崎は73回目の「原爆の日を」迎えました。長崎市の平和公園では平和記念式典が行われ、原爆投下時刻の午前11時2分に合わせて黙とうが行われています。昭和20年(1945年)8月6日に広島市に原子爆弾が落とされ、14万人の尊い命が失われました。その3日後、昭和20年(1945年)8月9日には、長崎市に原子爆弾が落とされ、約7万人の尊い命が失われました。長崎市に落とされた原子爆弾は、プルトニウムを原料とする原子爆弾で、広島市に落とされたウランを原料とする原子爆弾の1.5倍の破壊力を持つものだったそうです。それにも関わらず、長崎市の被害が広島市と比べると少なくて済んだのは、長崎市の地形によるものだとされています。山が多い長崎市は、その山が原子爆弾の熱線や衝撃波、そして爆風などを防いでくれたようですが、それでも大きな被害であったことに変わりありません。
原爆の被害に遭った人々はどんなに苦しかっただろう、大切な人を失った人はどんな思いだったのだろう、原爆に遭う前にはどんな夢をもって毎日を生きていたのだろう、そして、それらを一瞬にして奪っていった原爆というもの、戦争というものについて考えさせられます。
長崎の平和公園には、平和の泉があります。原爆で体内が焼けただれた被爆者は 「 水を ・・水を・・・ 」 とうめき叫びながら死んでいったそうです。その痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈り、あわせて世界平和を祈るため、この平和の泉は建設されました。そして、そこにある石碑には、次のような手記が刻まれています。
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のどが乾いてたまりませんでした
水には あぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
― あの日のある少女の手記から
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わずか、73年前にあった本当の出来事なのです・・・・。
作物の生長は待ってくれません。美味しい時を逃さず収穫しないと・・・と言うわけで、今日も小雨の降る中、畑に行ってみました。 そして上の写真が翁島農園の今日の収穫です。マルチでできた偽カラスをつるして以来、カラスの被害はありません。それどころか、行くたびに新たにスイカができていることに気づき、カラスに見つからないようそっと藁で隠したりしています。
そんな中、今日は、前から気になっていた表面に傷のあるスイカを、思い切って収穫してみました。傷の周りに触れると、少しぶよぶよした感じがしたからです。案の定、切ってみると中が黒っぽい赤になっています。だめかなと思いましたが、簡単にあきらめるわけにはいきません。せっかくできたスイカですもの。外科医になったつもりで悪い部分を除去。きれいな赤色をした部分を取り出すことに成功しました。食べてみると、とても甘くて美味しい。近くにいたA先生にもすすめました。「なんか、酸っぱい気がする。」A先生のこの一言で、すべて廃棄することにしました。残念!!
子ども達が、次にプールに来る頃には、きっと、プール終了後のおやつとしてスイカが食べられるかなと期待しています。
8月8日(水)曇りのち小雨。午後2時30分の気温は24度。本来だと今頃は、プールから子供達の歓声が聞こえているはずの時間ですが、台風13号が接近して午後からは雨も降り出すという予報でしたので、午前中の内に早々とプール開放の中止を決定しました。ご了承ください。
午前中は、各地区区長さんに学校だよりの回覧をお願いに行きました。蟹沢地区に行くと、今年も、地区内の道路沿いや各家庭の庭先に、ひまわりがたくさん咲いています。国道49号線からもよく見えて、とてもきれいです。
8月7日(火)プール開放6日目。午後1時の気温22.5度、水温25.5度。風があり涼しい日でしたが、それでも22人の子供達が来てくれました。今日も、子供達の安全を見守るためにご協力いただきました保護者の皆さん、ありがとうございました。今日は、台風13号に備えて、テントの片づけなどもご協力いただきました。
8月7日(火)曇り。午前9時の気温は20度。
今日は、「立秋」です。暦の上では、秋を感じる頃となりました。そして、正にその通りの日になりました。
でも、台風13号が過ぎた今週土曜日からまた、暑い日が続くというということです。それにしても、台風13号が大きな被害をもたらすことがないことを祈るだけです。
8月6日(月)、今日は広島原爆の日です。今年で73回目を迎えるということです。ニュースでは、広島市の平和記念公園で、市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われ、約5万人が参列したと報道されています。
さて、原爆が広島に落ちたその日は、どんな日だったのでしょう。広島市のホームページには、以下のように記載されています。
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昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾(リトルボーイ)が、広島に投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。
原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。
爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。(広島市HPより)
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二度とあってはならない出来事です・・・。
8月6日(月)雨。午前9時15分の気温は22度。昨日から発達した雨雲により東北地方では、災害の危険が叫ばれています。現在、隣の山形県には、避難指示が出ている地域もあります。猪苗代町も1時間に14mmの降雨があったと報道されています。久しぶりの雨ですが、ほどほどに降ってくれることを願うのみです。今日は不安定な天気のようです。十分注意して過ごしたいと思います。今週半ばに日本上陸が予想されている台風13号も心配です。火、水、木に予定されているプール開放も心配です。悪天候のため中止となる場合は、遅くともお昼前には、オクレンジャーで連絡いたします。
一昨日まで5匹いたはずのザリガニの子供の水槽ですが、今日見てみると4匹しか見当たりません。水槽の中には、脱皮した後の殻が残っています。
多分、脱皮の直後に食べられてしまったのでしょう。うかうか脱皮もできません。自然界は厳しいです。